35年と3か月間 さよならテニスコート2016年06月30日 22:09

顧問の高橋です。
本日30日から期末試験が始まりましたが、先週の月曜日から徐々にテニスコートの掃除や撤去を部員に手伝ってもらいました。

ダッグアウト内、ロッカーの中身。コートを取り囲んでいた防風ネットや目隠しネットなど。また水取りや鉄製レーキ、ベンチや移動式ネット。プレハブの荷物を整理して、プレハブの移設。
そして、いよいよテニスコートのネット5面を全て外しました。

期末試験1日目ですが、部員達は積極的に荷物を新しい部室に移動させてくれました。

最後ということで私も3年生の賀川と約30分間のラリーを・・・。
様々な思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。

部員22名とも1球だけでしたが、1人ずつラリーして締めくくりました。

この場をお借りして、思い出を綴らせて頂きます。

1981年4月に入部したテニス部。
初日の日曜日の練習に遅刻しそうになり革靴で武蔵小杉駅から法政通りを走りました。新入部員のやることは前半『外周5周(約5.5キロ)』と『トレーニング3セット』、後半は『ボールボーイ』のみ。午後からの練習は『多摩川までのランニング&トレーニング』、残っている後半組は勿論『ボールボーイ』と『審判』
これを約2か月間、繰り返しました。
6月に入り、佐藤雅治キャプテンから「1年、素振り」と言われ・・・・?!なんだ素振りって?と皆で驚きました。
当時は中庭コート(クレーコート)が火・木・土、工業コート(コンクリートコート)が月・水・金。日曜日は中庭と工業のローテション。
法政大学体育会テニス部の方々が小杉で練習していたので、「1年大学見て来て」の言葉に・・・絶句でした。面数が増えるということは1人で1面ボールボーイをやることになるからです。
OB会長である佐藤雅治さんは、我々が入部してから個人戦・団体戦を通じて1度も負けた試合を観たことがありませんでした。
『やはりキャプテンというのは、こうあるべきだ』と思いました。
厳しい先輩方ばかりではありません。練習後のランニングは大学グラウンドの通称『外周』だけではなく、そのまた大回りの【大外周】というランニングもありました。優しい先輩は「1年無理しなくていいぞ!」という暖かい言葉も頂きました。
練習後の後片づけや1年生の仕事が沢山ありましたが、3年生から「1年で帰る方向が一緒の者」と言われた時の手を挙げる速さといったらありませんでした。先輩の個人戦の応援の帰りには、必ず先輩が食事を御馳走して戴きました。
翌日、1年同士で「何を食べたか」を競い合ったものです。
一番怖かったのは大学生でした。入部して間もない頃の日曜日に二高生と大学生のマッチ練習で審判をした同期の1年は「サーブが早過ぎて見えない」と言えずに、あやふやなジャッジをしてすごく怒られました。クレーコートはボールの後が残るので、副審の1年と息を合わせるのにひと苦労でした。クレーコートのローラーも大学1年生との交流を深める時間でした。ローラーを3人で引っ張り、1人がレーキを後ろで付いていく作業。個性ある大学1年生から『ジャンケン』の厳しさを徹底的に教わりました。
夏合宿は山中湖で7日間。朝のランニングから、振り回しがメインの練習。どれほど雨乞いをしたか。それだけ辛かったです。
勝てなかった1年生の時に比べ、2年生になって市民大会ダブルスの優勝を機に、夏の毎トーなど昨年勝てなかった相手に勝てるようになった不思議な経験をしました。
二高テニス部一番の思い出は、やはり関東センバツ決めの試合です。
山手公園での団体戦。ベスト8から厳しい試合ばかりでした。昔は『水を飲むと疲れる』という意味不明の迷信があり、さらに緊張感で朝から食事も進まず、背中からズッシリと重い荷物を背負って試合をしているような感覚がありました。
準決勝は慶應VS桐蔭、法政二VS栄光という、法政以外の3校は中学時代からテニスを経験しているエリートばかりでした。
ダブルスを落とした後、シングルス1で出た私の武器は『粘り』しかありませんでした。チャンスの時に出るネットプレイが決まらなければ勝機はありません。当時は3セットマッチでしたのでセットカウント0-1でリードされていました。先に相手のS1選手が足にケイレンを起こしました。何とか1-1セットオールにした後、ファイナルに入ると私の左足大腿部にもケイレンが・・・。知識もないのでタオルで大腿部を縛り、片足を引き吊りながらの泥仕合。
正確に記憶していませんが、マッチポイントはネットでボレーを決めて、そのまま倒れこんだまま起き上がれませんでした。
身体中にケイレンが来たので救急車を呼んでもらい病院へと運ばれました。
点滴から目が覚めると、両親が病室に。「親父、オレ勝ったよ!」と報告すると、「倒れるまでやるな!馬鹿者」と一括されました。
関東センバツが読売ランド内のテニスコートで開催されていた時代です。全国センバツが決まった後にソフトクリームで乾杯をしたものです。

卒業後は体育の教員を目指し、日本体育大学に進学しました。
引退後も後輩の迷惑を気にせず、練習に参加。大学4年間も二高テニス部の指導を最優先にスケジュールを組みました。

二中高で体育科教員採用が決まりましたが、10年間は二中で様々なクラブ(剣道、バスケ、ハンド、サッカーなど)顧問の後、94年に二中テニス部が創部する経緯となりました。

2000年に二高へ異動となり、今まで積み重ねてきた経験をすべて発揮することだけに専念してきました。熱意だけの指導者に部員たちが本当に良く付いてきてくれました。18年ぶりの全国センバツでは3位入賞と良く頑張ってくれました。卒業生のみんな、ありがとう。
池畑先生には今でも感謝の気持ちで一杯です。

来年4月に完成する新しいテニスコートと、また新しい法政二高テニス部 男女 の歴史を築き上げていきます。



ありがとう テニスコート
さようなら テニスコート

コメント

_ H14卒榎本圭佑 ― 2016年07月02日 19:53

先日のコートお別れ会お疲れ様でした。
私が主将の時にハードコート1面クレーコート4面から、ハードコート3面オムニコート2面に移行しましたので、ローラーがけを経験した最後の方の代となります。
先輩や後輩、そして同期と一緒に汗を流したコートに対しては、今も感謝の気持ちが尽きませんし、今後も忘れることはありません。そして、司さんが今でも池畑先生に感謝するように、私は今でも司さんに感謝の気持ちで一杯です。
私も経験しましたが、学校のコートが使えないことで移動時間等様々な苦労があると思います。OBの力を合わせて現役を支えていければと思います。

_ H13卒渡辺泰一郎 ― 2016年07月09日 09:36

先日のOB会ではありがとうございました。初めてOB会に参加させて、良い経験をさせていただいたと思います。
クレーコートがオムニコートになり、ハードコートが2面になりと変化をしていく中、コートがなくなってしまうのは寂しい限りです。司さんのもと、3年間テニス漬けの毎日を送らせていただき、今となっても法政二高に入ってよかった。司さんのもとでテニスができて良かったと思ってます。怒られたこともたくさんありましたが、今となればいい思い出になってます。現役の高校生も悔いのないように最大限に努力して欲しいと思います。

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